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かつては鉄道の駅を中心に、歩いていける範囲内にまとまっていた商業地は、自動車による来店を前提とした郊外の大型店舗に取って代わられた。この傾向は特に地方で顕著だ。駅前商店街がシャッター通りと化す一方で、郊外の国道沿いに大型店舗が林立する様は、この10年ほどで当たり前の田園風景となった。
 大量に仕入れて安く売る大型店舗では、駅前商店街よりも安くものが買える。しかし、自動車を運転することができない未成年や高齢者には、行きづらい場所だ。自動車がなければ買い物ができないとなると、生活のすべてが自動車に依存することになる。そうなると人は歩かなくなる。歩かぬままで年をとると、歩行困難な老後が待っている。
 自動車を運転しなければ生活できないとなると、老化が進行した者も自動車を運転することになる。視力、反射神経、判断力などが衰えても自動車を運転するとなると、自動車は走る凶器になりうる。高速道路の逆走でもしようものなら、大惨事になる可能性もある。
 これら、自動車に起因する望ましくない社会の変化もまた、「自動車の社会的費用」と見ることが可能だ。では、発生した社会的コストを自動車の受益者が支払っているのかといえば、そうではない。
 「自動車の社会的費用」の出版から36年がすぎたが、その内容が指摘する問題は、今も解決してはいないというわけだ。自動車という、「モビリティの王様」とでもいうべき乗り物を考える上で、このことは常に意識しておく必要がある。

自動車の社会的費用を巡る基本的な構図 | WIRED VISION (via cycling-ex)

そこでグーグルカーの登場です。未成年もご老体も。

(via skoei)
肛門科ってうんこの話をしても先生がちゃんと答えてくれるのが感激だった。 バナナぐらいのうんこが理想って言われたので、それは皮を向いたバナナですか?と聞いたら真顔でそうと言われて、おれはずっとこういう会話がしたかったんだと思ってちょっと感激した。
Twitter / yaginome (via gkojax)

ところが小渕はこの全てをやらない。

まず1。「知らない」とは決してコメントしていない。むしろ「知らなかったでは、済まされない」と、本来ならメディアや野党政治家が攻撃の常套句として仕掛ける言葉を自ら発している。つまり「事実関係はわからないが、私には責任がないとは言っていない」という意味合いがここには含まれる。よって「責任感を持っている」。また、そうすることでメディアの側としては、このネタでこれ以上ツッコめなくなる。相手が否定し続ければ続けるほど、メディアとしてはツッコめるのだけれど、認めてしまったらもうやれないからだ。

次に2。1と少々絡むが、全く「言い訳」をしていない。これは、ほかの大臣のこの手のツッコミに関する返答とは好対照をなす。とりわけ、今回は女性大臣が注目されているが、これらの大臣の不祥事に対する弁明とは明瞭なコントラストを結果として作り上げている(こういった存在は小渕の黒子・かませ犬として機能している)。小渕は記者が「安倍首相に会うのか?」という質問に対しては「今はしっかりこの事実関係を調査すること」と回答しているが、これなどはまさに小渕側の思うツボにはまった質問だ。「ハイ」と答えれば「あ、首相と相談して言い訳さがすのね」になるし「いいえ」と答えれば「じゃあ、別なかたちで言い訳さがすのね」という文脈が登場する可能性があるのだけれど、前述のように回答すると、言い訳をする前に「この問題に逃げることなく、つまり言い訳することなく、真摯に取り組む」というイメージを形成するからだ。

そして3。よくよく考えてみれば、これは自らの支援団体の事務上のミスの可能性もある。つまり小渕自体はこういった地元での政治活動を支援団体に任せている。そして、その支援団体は元はといえば父親・小渕恵三の支援団体。いいかえればドドメ色の旧態然とした体質をそのまま引き継ぎ、その上に小渕優子が乗っかっているというふうにもイメージできる(多分、そうだろう)。「お嬢様、銃後の守りはお任せください」ってなところなのかもしれない。で、にもかかわらず、ドドメ色体質なのでカネをバラまいた(こんなことは政治家には、まあ、よくあることなのだけれど)。だから、小渕自身は潔白で支援団体=事務所のミスということもあり得る(勘違いしないでいただきたいが、もちろん、現状では事実ははっきりしていない。あくまで「あり得る」レベル)。しかしながら、これまた事務所、秘書、支援団体という言葉を小渕は一言も発していない。つまり、責任を転嫁していない。

こうなると今度は「たとえ支援団体等のミスであったとしても、身内を庇い、自分の責任として引き受ける」というパフォーマンスになり、たとえ大臣を辞任しても、さらには国会議員を辞任したとしても、地元の信頼はむしろ高まってしまう。だから、たとえば一旦議員を辞して謹慎し、次の選挙で「禊ぎが済んだ」ということで再出馬すると、今度は前回以上の票を獲得してしまう現象を起こす可能性すらある。つまり「先生は何も知らなかったのに、支援者たちの不祥事を自ら被ってお辞めになったわけで、可哀想」。不祥事の元凶となった(なった場合だが)支援団体の方は「先生に責任を負わせてしまった罪滅ぼしをしなければ」ということで、いっそうの忠誠を誓いその紐帯を強めていく。で、この時、支援団体や事務所が不祥事をやって議員はそのことを知らなかったと言っても公職選挙法や政治資金規正法には抵触しているし、その責任は議員の方に降りかかってくる(要するに管理不行き届き)と言うあたりまえの規定(もちろん適用される)すら、イメージ的には払拭されてしまうのだ。

エボラとは少し違うのだけど、山梨のいわゆる「地方病」と言われた致死率の高い感染症との数百年に渡る戦いと根絶の記録は今読んでおいて損はないと思う、Wikipediaでも指折りの秀逸な記事。
http://t.co/vTy4sqMc6Q
Twitter / gokki (via valvallow)
厄介者達を集めよ
皆と違うことをしている者にチャンスを与えて彼らの主張やクリエイティビティを証明させよう。時に彼らのやり方が作り方を変える影響力をもっています
完璧はイノベーションの敵である
すべてを完璧な状態にするのではなく、全体のバランスを保つことが作品全体の質を高める
熱い感情や行動を求めよ
イノベーションを生む人は物静かでも、休息することなく何かを追い求める情熱をもっている
真空状態のような雰囲気ではイノベーションは生まれない
プロジェクトに携わっているメンバー全員がいる場所でオープンにディスカッションをする
士気が高いと安上がり
社員の士気に注目することによって、同じ予算でも高い価値を作り出すことが出来る
成功を守るようなことはしない
安全なことをしたり、リスクを避けてばかりでは駄目。不可能を可能にするにはまず不可能を可能にすることが出来ると信じること
インタラクション=イノベーション
人とのインタラクションするきっかけを増やすこともイノベーションの鍵。ピクサーのスタジオはスティーブ・ジョブスのアイデアが盛り込まれており、お手洗いを建物の中心に配置することで人々が出会うきっかけを増やしているのだとか
様々な分野の人が相互学習出来るようにする
スタジオ内に幾つかクラスを設けて、誰でも専門知識が得れるようにしている
悪い繋がりは取り払うこと
表では無難に済ませて裏で陰口を叩いたりしている人はすぐに切ること
お金がフォーカスであってはならない
金稼ぎのために映画を作るのではなく、よい映画をつくるためにお金をつくる
FUNRiDE - Photos from FUNRiDE’s post
COLUMN: Post-trap Music of the Online Underground

hihiwhoopee:

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さきごろRAに日本語訳が掲載されたAdam Harperのコラム「オンライン・アンダーグラウンド: ニューパンク」はこれから先、繰り返し読み返され、参照・引用され、あるいは模倣されるだろう。いま現在のインターネットと音楽の幸福(あるいは不幸?)な関係における状況の「一面」(あくまでも一面、と断らなければいけないだろう。でもこれは無視できない一面だ)を整理し、分析し、そこに批評的な視線を注いだ優れた評論だ。現状分析的であり、かつ多くの先見的な議論を含んでいる。

とはいえ、状況はすぐに変わってしまうかもしれない2009年と2012年の音楽を取り巻く状況がまったく異なっていたように。ゼロ年代と2010年代が隔絶しはじめているように)。それはだれにもわからない。Harperの議論がまったく無効になっているような未来が到来するかも、しれない。でも、ひとまず僕らのようなニッチなブログ(の編集長も同じようなことをこぼしていたが)はオンライン・アンダーグラウンドを新しいパンクだと信じ、そこに美的な価値や驚き、新たな発見があると考えている。

さて。前置きが長くなってしまったが、このコラムで紹介したいのはそういったオンライン/インターネット・アンダーグラウンドの無限の宇宙を浮遊する無数の小さな島宇宙たちである。/彼女らはそれぞれにオンライン・コレクティヴとでも言うべき徒党を組んでゆるく連帯している。その島宇宙間での交信は……あるのかないのかよくわからない。しかし、アーティストたちはみな似たような文法を確実に共有している。だから、彼/彼女らの活動を一括りにしてひとつの「シーン」と呼んでもいいのかもしれない(そのシーンはかつてのシーンと呼ばれたものとは大きく異なっているけれど)。いまはひとまずこれらの音楽を「ポスト・トラップ」とだけ呼んでおこう。

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仕事量の全体と自分の生産性が見通せなければ、もちろん正確な見積もできないし、競争に勝つことだって難しいだろう。それ以前に、自分が自分のスケジュールをプログラムすることができなくなる。誰か他人が見積もった勝手な山積みの下であえぎたくなければ、パラメトリックな推定法を磨くべきだと思うのだ。
「新たなイメージは類似の発見から生まれる」「資産とは類似性である」「差異の発見は想像力につながらない」。かんたんにいえば、そう、言っているわけだ。

『崇高と美の観念の起原』エドマンド・バーク 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇

この言い分は画期的だ。いまでも十分に通用する。それどころか、このように「類似の力」や「模倣の作用」を正面から強調できないために、多くの現代思想は迷わされてきた。

(via mercator)